2013年6月25日火曜日

amor fati

自らの運命を愛すること。

自らの人生を前向きに受け入れることはきっと重要なことなのだろうと思います。周囲の人たちと建設的な人間関係を構築していくためにも(そしてそれは、世界をちょっとだけ豊かにしうる、ささやかだけど大切な行為だとおもう)。

しかし、自らの境遇を受け入れ、さらには今あることに喜びを見出すことはなかなか容易ではありません。脚が遅かったり、頭がトロかったり、そのくせ口は達者で不用意に他人を傷つけたり…。なんでこんな風にうまれちゃったんだろう、と思うことばかりです。そして、ある年代までは、そのことでいろんな人を恨んだりします。

僕が遊びに熱心のは、あるいは、少しでも自らの人生を愛そうと悪戦苦闘している姿なのかもしれません。しかし、人生を本質的に愛するためには、特別な物語の力が必要なのかもしれません。人生は苦しみと悲しみに満ちているように思われます。それでもなお、自らの生をいとおしく感じるような物語の力が。

その物語は何でもいいわけではないようです。村上春樹さんがいくつかの著書の中で、そうした物語は開かれたものでなくてはならないと言及しています。逆に言えば、閉じてしまった物語には邪悪なものがあり、悲惨な結末をももたらしてしまう危険性をもつ、と。たとえば地下鉄サリン事件のような結果を。

閑話休題。僕にとって特別な物語とは、生命が誕生して以来、さまざまな試練を乗り越えて現在へと至る物語であるように思います。苛酷な環境の変化に適応し、異種あるいは同種との生存競争を生き抜き、なんとかここまでたどり着いた長い長い物語。その過程には、無数の試行錯誤があり、おびただしい数の失敗が存在する。生き残ったものが圧倒的に優れているたわけではない。たまたま、より適応的であったに過ぎない。彼らはある種の不完全さをかかえながら、なお生き抜くために、さまざまな犠牲を払い、傷つき傷つける。生き続ける限り。ただの生命賛歌ではない。しかし、だからこそ愛おしい。そんなような物語。

原因解明によって何かの病気が治ったり、新しい発見によって生活が便利になったりすることは多くの人にとって喜ばしいことなだろうと思います。しかし、ぼくはそれよりも、生物がさまざまな環境に適応してきた途方も無い時間とその物語性に心を奪われるのです。それはきっと、その物語を描き出すことがが自分自身の治癒となるからだと思います。そういう意味において、「進化」という時間軸上の観点はぼくの研究生活において欠かせないものになりつつあります。

人生は苦痛であり恐怖である、だから、人間は不幸なのだ。
しかし、人間は人生を愛している、苦痛と恐怖を愛するから。

-   フョードル・ドストエフスキー