村上春樹について少し、書き留めておこうと思う。
今年の六月、アイスコーヒーが恋しくなり始めた頃、僕は人生で始めての「村上春樹」を読んだ。
「村上春樹全作品1979-1989」の第一集だった。ピンボールを探す話などが収められいるものだった。特に面白いとも感じなかったのだが、それにもかかわらず最後までスラスラと読めてしまったことに驚いた。最後まで一定のペースでページをめくって行って、気がついたら終わっていた。読書後の感想は、そんな感じだった。僕にとって興味のない本を読むことは甚だストレスで、たいていの場合、最後まで読みきることはない。だから、こんなことは初めての経験だった。
九月に入って、ホットコーヒーを飲む機会が再び増えてきた。
僕は、学校の図書館で、神経科学用のポスターを大判印刷にかけていた。
出来上がるまでの時間つぶしにと「村上春樹全作品」の第三集を手に取った。読み始めてまもなく、印刷に不具合が生じたため、結局、最初の二、三頁に目を通しただけで終わった。そのまま返してしまうのも消化不良のようで気持ち悪かったのでとりあえず借りて帰ることにした。返却期限まで読まなくても、それはそれで、そのまま返してしまえば良いと思いながら、貸借手続きをした。その本は、仕事用のカバンに収められたまま横浜まで行ったのだが、その間一度も読まれることはなかった。
学会帰りに、クイーンズスクエア内でいくつかの買い物をした。
ひとつは国内の出張に使うキャリーケース。いままで、フォーマルシューズを持ち運ぶのに難儀していたので、これで少しは楽になると思う。もうひとつはマグカップ。BRIXTON POTTERYというポーランドのメーカーのものらしい。淡いクリーム色の地に、草原を歩く四頭の像が真横から描かれている。アフリカ美術を彷彿とさせる雰囲気を持っている。これに少し濃い目に淹れたコーヒーを入れると、きっとコーヒーの色が映えるに違いない。そこから立ち上る香りは、アフリカの大地から立ち上る熱気や湯気のように見えるかもしれない。
東京駅を出たのは、午後6時を過ぎていた。
新幹線の中で僕は、今回の学会を振り返りながら、気持ちが高揚しているのを感じていた。旧知の人たちと合えたということそのもの。地震や原発の話題を忘れて、いろんなひとたちと研究や仕事、それぞれのことを話せたこと。自分の研究に対するいろんな人のリアクション(好意的なものも、渋い意見のものも)を肌でリアルタイムに感じることができたこと。そんなことをひとつひとつ思い出しながら、横浜での自分の心の動きに総括を与えようとしていた。
福島駅に着いたのは、午後7時45分を過ぎたころだった。
僕はコーヒーを飲みたかった。正確に言うと、喫茶店に入って、コーヒーを飲んで、高揚した気分を少し落ち着かせたいと思った。駅前にあるいきつけの喫茶店はすでに閉店時間を迎えていたため、僕はいったん自宅に戻って荷物を置いた後、「村上春樹全作品」の第三集を持って近くのエクセルシオールにむかった。
* * *
エクセルシールについた頃には、もう午後九時をたっぷりと過ぎていた。だから、僕はコーヒーを頼まずに野菜ジュースを頼んだ。それから、一人がけの席について、マグカップのレシートを眺めて、村上春樹の本をカバンから取り出した。そして、横浜の学会を振り返った。横浜での自分の心の動きを総括する作業の続きを行った。
学会のことなどを考えていたはずが、いつのまにかある女性のことを思っていた。結局のところ、「マグカップ」も「村上春樹」も「横浜」もその女性につながる一本の直線で結ぶことができるものだったのだ。
六月のはじめにその人に対する想いをとめられなくなり、夏の盛りを過ぎた頃にその想いになんとかケリをつけた。そして、季節が秋口にたったころ、やっぱりその人のことが好きな自分に気がついた。そこで僕は初めて、村上春樹の文章に魅かれるようになった。
彼(村上春樹)は、人の漠然とした気持ちや感情を、漠然としたまま(整理されていない状態のまま)記述しようとしているのではないだろうか。そう思って彼の文章を読むと、いままでに感じたことのなかったような魅力を感じるようになった。
人の気持ちや感情、あるいは行為の中で、きちんと言語化できる―つまりはきちんと他人や自分自身に説明できる―ものはいったいどれだけあるだろうか。少なくとも僕の思考や行為の中で、きちんと言語化できて説明できるものは数えるほどしかない。言語化に成功したものだって、正確に言うと、その時点で言語化に「成功している」というものでしかないし、何通りもある説明のうちのひとつでしかない。たとえば、ぼくが「横浜」で「マグカップ」を買い、帰ってきて「村上春樹」を読んでいるのは、未練がましく感傷にひたっているという行為として記述可能だ。他人が僕をとらえるにはそれで十分かもしれないが、僕にはまったくの不十分だ。僕にとっては、それについて言語化できたもの全てを集めたとしても、氷山の一部分でしかない。ある程度正確な全体像を描き出すには、今年の6月に一冊目の「村上春樹」を手にしたところから、いくつかの場面を提出して積み重ねていくしか方法がないのだ。それを一から完璧に説明しようとすると、おそらく自分の生い立ちをすべて文字にしなければならないだろう。ほとんど絶望的な作業だ。いきおい、いくつかの要素が重なってそういう「状態」になっているのだ、としかとらえるよりほかなくなってしまう。ある程度簡便に全体を捉えるにはそうするしかないのだ。
村上春樹は、言語化できないものまでも含めて人の行為や心の全体像を描きだそうとしているのではないだろうか。一見、整合性のない場面をいくつも積み重ねていってなにかの全体像の輪郭を描いてゆく。提出されたそれぞれの場面に整合性があまり見られないのは、人の気持ちそのものにあまり整合性がないからなのかもしれない。
エクセルシオールからの帰り、レンタルショップに立ち寄った。
ドライブのとき、車の中で一緒に聞いたクレイジー・ケン・バンドのアルバムを借りた。
今日の飲みもの
モカ・マタリ、AXC-BB
今日の飲みもの
モカ・マタリ、AXC-BB