2012年4月22日日曜日

モカ・マタリ AXC-BB

今朝はまず、温泉に向かった。目覚めたときに足の疲労感を感じたからだ。2月半ばにぎっくり腰を患って以来、足の疲労感には敏感になってしまった。足の疲労感を感じたまま何もしないでいると腰が痛くなることが多い。今週末は足の疲労感と背中の強張りがひどかったので、念には念を入れてマッサージを受けることにした。ぎっくり腰以来、2週間に一度はマッサージを受けている。

初めてのぎっくり腰は衝撃的な痛さだった。人生に絶望しそうになった。この先何十年もこの痛みを抱えて生きなければならないのか、と。今では、体のサインをうまく読めるようになったので、なんとかうまくやっていけそうな気がする。


福島市の中心部では桜が満開を迎えている。川沿いの桜並木どおりでは多くの人たちが花見を楽しんでいた。

昨夜は福島市内の飲み屋街に沢山の人出があったそうだ。それをおしえてくれた人は、満席でなかなか入れる店を見つけられずに、3軒(福島ではとても多い数)も店を回らなければならなかったようだ。「みんな春に浮かれてるんだよ」と、その人は言った。

医大の敷地では新緑が芽吹き始めている。福島市内の春はこれから、西吾妻連峰を駆け上ることになるだろう。さまざまな色で溢れる季節が到来する。

去年も同じような春が来た。去年の今頃にこのブログに書いたものと同じような春の景色が今年も福島市内を彩っている。今年、その春に浮かれる人たちが去年よりも沢山いるような気がする。



ここ数ヶ月くらい、研究に対するある想いが頭の中をめぐっている。

「行動の機構」ということについて。

動物の行動はどのように生み出されるのか、それを知りたいとずっと思ってきた。「内外の環境の変化を捉え、その変化に対して適切に反応する―あるいは働きかける」というのが、動物の基本的な行動原理だと思っている。多くの場合、それらの行動は単純な反応でも、画一的な反応ではない。理性な判断や感情・情動あるいは記憶などがさまざまに影響することによって、多様な行動パターンが形成されるのではないか。そのような行動が生まれるとき、脳の中ではどんなことが起きているのか知りたいと思う。

「情動が社会性行動に与える影響」について。

震災以来、動物の社会性行動と情動の関係について考えることが多くなっている。人間社会において、「社会性」というととても高貴なものを連想する。理性とか、公正さとか正義だとか、徳とか博愛だとか。たしかにそいうものは社会を形成する上で、とても大切なことだ。それに異論はない。でも、人間や動物の社会の大部分を支えているのは理性でも公正さでもないんじゃないだろうか?だって、理性や公正さや正義や徳や博愛に溢れた社会ってないけど、それなりの社会は存在してるわけで。すくなくとも今の社会を支えているのはもっともっと素朴な感情であったり情動だったりするんじゃないだろうか。たとえば、ひとりでいると不安とか、好きな人と離れると寂しいとか、そういう感情。そういう感情やら情動が動物の社会性行動に与える影響とかあるんだろうか?あるとしたら、どういう風に影響するのだろうか?そんなことを考えている。


「キリスト教的社会観、資本主義的効率性への挑戦」

情動が社会性行動に与える影響を調べることって結構重要なんじゃないかと思う。今の社会に漂っている閉塞感は、キリスト教的な価値観や資本主義的な価値観が行き詰っている結果なんじゃないかと思うから。理性的な行動こそ正しい社会をつくる、みたいな価値観。みんながキリストや聖人君主みたいに正しいことを強要される(誰かに正しさを理解してもらわないと、自分の存在すら無くしかねない)し、みんなが効率的であることを求められる(そうしないと生きてけない)。でも、ここらでそろそろ、そういう社会を見直しても良いんじゃないかと思う。だって、人間は感情のある生き物だから。そして、その感情なり情動なりがたくさんの社会性行動を生み出すきっかけにもなってるはずだから。

そういうわけで、僕は「情動が社会性行動に与える影響とそのメカニズム」を神経生理学的に研究したいと思う。

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